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両親が東郷町と倉吉出身でよく倉吉駅と松崎駅に写真を撮りに行きましたね!82系まつかぜ、あさしおなど、帰省していく内に181系に代わっていきましたね。今でもHOゲージの181系があり45年ぶりに走らせました、やっぱりいいですね😊懐かしいです。親戚の叔父や従兄弟が国鉄マンでしたので影響が大きいですね。いつも色々見せて頂いてます。妻が倉吉出身ですので、最近は帰省したらスーパーはくとですね!でもやっぱり国鉄時代ですね😊懐かしいビデオ見せて頂いてます。
そうですか、倉吉駅は、昔は上井駅と言う名前だったのですよ。その時、私は保育園くらいの子どもでしたけど、山陰本線に初めて特急が走った日、上井駅まで父に連れられて見に行きました。私は、倉吉出身と言うわけではなく、おやじが転勤族だったので、3年間だけ、そこに住んでいたのです。でも、この時見た、特急まつかぜは、忘れられません。HOゲージの181系があるのですね。私は、13mmゲージの80系82型があります。もう1輌作らないとダメなんですがね。
@@HobbyVideos ご返信、ありがとうございます。😊”国鉄時代の鉄道ファン”のフレーズから始まり柔らかいナレーションで時代背景の語りが心地よく、懐かしく楽しく!観させていただいてます。😀語りを聴いていると国鉄マンだったのでしょうか?鉄道模型の動画も見させて頂いてます。私は61年生まれです。私もキハ82系の思い出が多いです。大阪を8:00発で倉吉まで小学校時代1人でよく帰省していました。また、9:00時代発のはまかぜ1号にも乗車することもありましたね!小学生の頃、倉吉線はc11🚂が客車を引いていました。 82系は鳥取駅から博多からと連結し13両編成は圧巻でした。窓からカーブで先頭車が余裕で見ることか出来ました。長編成は最高でした!一度お会いしたいと思う印象深いナレーションで、本当にお会いできたらと思います。鉄道模型等のお話もできたらと思っております。(色々教えて頂けたらと思います)今エンドウのDD54があるので”出雲”を組みたいな〜と思っています。😄これからも温かいナレーションの動画楽しみにしております。
追伸失礼いたしました。そうなんです!昔は上井駅でした。懐かしいです。父の実家が引地というところで燕趙園の近くで高速で通過するスポットなのでよく写真を撮りに線路近くに行きました。😀
なるほど、倉吉線のC11は、1度だけ乗りました。高校になって、ユースホステルの春の高校ホステリングと言う、行事で、京都から普通の出雲市行夜行で倉吉に着いたら、すぐに連絡していて、乗ったのです。貨物と客車が連結されてて、ゆっくりと走っていましたね。懐かしいです。
島根県益田市の出身です。まつかぜ、おき、やくもが当時走ってました。181系も良いけど、自分的にはまつかぜの82系です。80年のゴールデンウイーク、小学校6年の時親に頼みこんで、益田~米子まで乗った上りのまつかぜが忘れられないです。食堂車キシ80での食事はハードル高すぎて実現しませんでしたが、未だに良いお想いでです。貴重な映像をありがとうございます❗
そうですか。この当時、キハ181系の方が新しいのに、古い80系を長距離の大阪と博多間に使っていました。なぜなんだ!っと私のチャンネルにメッセージを頂いた人に尋ねたら、キハ181系は故障が多かったらしいです。つまり、80系の方が、良い車輛だったみたいですね。でも、80系も最初は故障が多かったみたいで、特急はつかりで走り始めたキハ81が、はつかり・がっかり・事故ばっかりなんて、言葉が流行ったらしいですね。それで、作り替えられたのが80系82型だったそうです。キハ181系は、特急しなのでは、発電用エンジンが良く止まり、蒸し風呂特急しなのなどと、言われてたみたいです。
最後の博多発、新大阪行きまつかぜには、乗ったことあります。博多〜山陰本線経由の、島根県大田市まで。食堂車で、お茶しました、
お~! 私は、まつかぜは、大阪から城崎まで1回だけ乗っただけです。
当時の山陰線は素敵な列車が沢山運行されていましたね。母の実家が島根の浜田でしたので、京都から「まつかぜ号」でよく行っていました。また急行時代の「出雲号」、急行「だいせん」普通「山陰号」にもよく乗車しました。かんなべ号、はちぶせ号はスキーのお客さまでいっぱいでした。本当に懐かしいダイヤですね、当時のダイヤを見るだけでワクワクします。
京都から浜田と言うと、キハ82の博多行の「まつかぜ」ですね。私は、小学校1年の頃鳥取に住んでいたので、その頃の思い出は、1日に1往復の「まつかぜ」と、キハ28・58などの、急行、それにDF50牽引の普通列車としか覚えが無いのです。高校くらいになって、再び山陰に普通「山陰号」で行きました。でも、京都から浜田って遠いですね。でも山陰の日本海をみて、鉄道の旅を十分楽しめたのではないでしょうか。
1984撮影で編集が2014とは凄い4繋がりこの時の82と181が混走していたんですね今だは懐かしい映像ですね82も181も80も現在の気動車を改造してリアルに再現して欲しいものですね
まあ4繋がりは、偶然であまり意識していないです。聞くところによると、181は、良く故障したみたいですね。
昔の「まつかぜ」大阪8時で博多がよるの8時12時間も掛かるのか❗
そうですね。昔はこれが当たり前だったのです。
懐かしい‼️良く京都発、山陰号に乗って出雲市迄一人旅しました。私は昭和43年生まれなので、やくもが新大阪発なんて知りませんでした❗️感動しました‼️
山陰号ですか。昔は、山陰号って言う名前も無く、夜行普通列車の出雲市行きだったのです。私も、2~3回、乗りました。
中学生の頃、塚口の北側でよく「やくも」を見に行きました。三菱電機、未舗装路、なんの仕切りもなくバラストが盛り上がってるだけ。車輪だらけのシキ400が道端に留置してあって、チョコっと登ってみたり。放課後に自転車で行けば「やくも」に間に合いました。レールに向かい合って時間潰し?喋ってると遠くでフォ~ン。塚口で制限があるのでいつもアイドリングで通過、ホロをユサユサけっこう縦に揺れて怪しげな排水垂らしながら。ブレーキディスクの輝きが印象的でした。残念ながら「まつかぜ」は日没後なので見たことはありませんでしたが。
キハ181系ですね。この車両、ターボの音が鳴るのですが、アイドリングで通過だと残念ながら聞けませんね。ブレーキディスクのかがやきと言うと、車輪がブレーキディスクになっているのですね。
このころは伯備線電化でキハ181系が米子から向日町に転属して博多まつかぜ以外の山陰特急を全て置き換えた時期ですね。その時私は高校生で鉄ちゃん全開で楽しい時期でした。あの頃は大阪駅に1日いても飽きませんでしたからね。今じゃ同じ様なのしか来ないから乗りと撮りは殆どやめて模型専門になりました!(笑)
なるほど、私と同じような感じですね。でも、スーパーはくととか変わった車輛がこないですか?まあ、昔は大阪駅に急行も走っていた時代など、やっぱり色んな列車、車輛が見れましたね。
下関発福知山行きなんてのもいた記憶があります。DD51の引く旧型客車(40系や61系)に乗って、今やトロッコ路線の山陰旧線や廃線となった福知山旧線(どっちも山岳部電化の際に新線化した)を通ったのも懐かしい思い出です。
メッセージありがとうございます。山陰旧線や福地線旧線など、今の山陰本線のすべてを、複線電化して、もっと高速運転できるようにしないと車社会に負けてしまうように思います。
貴重な映像、ありがとうございます。懐かしい思いで見させていただきました。小さい頃、丹後半島へ行く時は豊岡まで“はまかぜ”や、急行の”但馬”に乗りました。今から思っても、昔は、本当に色々な名称の特急が走っていたのですね。チャンネル登録させていただきました。今後もよろしくお願いいたします。
わら チャンネル さん メッセージありがとうございます。それだけ、利用客もいたのでしょうね。最近の山陰には、全然行っていないので、良く分かりませんが、余部鉄橋が新しくなったり、なんか2輌の特急が走っているとか・・・・ずいぶん変わったのでしょうね。
私がキハ181系に初めて乗ったのが平成5年に四国に行った時でした。この数日後キハ181系は四国から引退しました。私は千葉に住んでいるため、キハ181系はおろか気動車特急に乗るというのがなかなかありませんでした。そのため、気動車特急に乗ったのもこの四国が初めてでした。
メッセージありがとうございますキハ181系が初めて乗った気動車特急だと言う事ですね。それも引退直前と言う事で、その時期だとすでに新しい気動車特急が走っていて、キハ181系は、見劣りしたのではないでしょうか?
キハ82のまつかぜ懐かしいですね!あさしおはこの頃には181系に変わっていたのですね、母の田舎、島根に帰る時181系のおき、やくもを見て興奮して一生懸命にカメラを構えたのを思い出します。
この時代は、キハ82は、大阪と博多の長距離列車1往復だけで、全て181系に変わっていました。長距離列車を古い82系を使っているのは、181系は、故障が多かったらしいですね。つまり、古い80系の方が良かったと言う事かな。
山陰本線の駅のすぐ前に当方の田舎があり、よく列車を眺めていました。その頃は特急といえばキハ82系で松風は食堂車付きの豪勢なものでした。それがキハ181系になった途端、しょぼく感じた覚えがあります。(「やくも」には食堂車のキサシがあったのに…)
ターボ音を響かせて走る国鉄特急色のキハ181系たまりません。国鉄特急色には品格があってよかったですね。
メッセージありがとうございます。そうですね。あの、国鉄特急色って、東海道本線の特急こだまで始まった色。つまり、国鉄の電車特急の最初に塗られた色ですが、あの色って、春夏秋冬いろんな季節の中、いろんな風景の中を走ると、とってもきれいに見えるんですね。私も、昔のビデオを見ながら、いつもそう思います。
いつも楽しく拝見させていただいてます!自分は平成生まれなので国鉄型を国鉄時代に見たり乗ったりしていないのでいつも国鉄時代の鉄道ファンさんの映像を参考にさせてもらってます!自分はキハ181形が国鉄型の気動車の中で1番好きなので、今回の映像はとてもワクワクしました!ターボのときのエンジン音が最高ですね!!
こちらこそ、メッセージありがとうございます。私の友達にもキハ181系が大好きと言う人がいました。その人は、今までキハ82ばかり見ていて、長野に行くのに親に特急しなのに乗せてもらったのがきっかけらしいのです。私は、キハ82の方が好きなんですが、キハ181系との外景の微妙な違いなんかは、鉄ちゃんにとってはたまらないですね。でも、どういうわけか、北海道には走らなかったのが残念です。また、なぜか古いキハ82が長距離の博多行のまつかぜに使われ、なぜ新しいキハ181系が使われなかったのか、不思議です。ターボの音は、聞くところによると山陽本線を走行している時が、一番良く鳴っていたようです。
まつかぜ復活させるべき博多新大阪
それは、移動目的の列車としては、無理かもしれませんね。今はやりの観光列車として、復活させるのならあり得るかも。 そうなると、私の希望では、外観の形は、昔のキハ82型、車内は観光列車の車内と言うのがいいかもね。
こんにちは懐かしいですね時刻表で下関と京都間は京都夜行と言ってました他に鈍行で門司と西舞鶴間も走ってましたねぇ懐かしいです
+oomori s さん メッセージありがとうございます。京都夜行って言っていたのですか?今は、すっかり様変わりしてしまったみたいですね。門司と西舞鶴間なんて、今では想像も付かないし、旧型客車が走っていたなんて、これまたもう知らない人も増えているのではないかと思います。
山陰本線の昔の時刻表が興味深かったです。京都発下関行き普通列車なんてあったんですね。。。タイムスリップできるのなら山陰本線の客車列車に乗って旅行してみたいです。門司発福知山行きなんて列車もありましたよね。私は北陸で育ったので、山陰本線にはほとんど縁がありませんでしたが、3月に青春18きっぷで神奈川から島根まで旅行しました。京都から山陰本線に乗りましたが、同じ日本海側ながら北陸とは似て非なる旅情と風情を感じました。車窓も飽きることがありませんよね、北陸本線は海が見える区間はごくわずかで旅情という点では物足りない気がします。列車のスピードは山陰に比べるとはるかに速いですよね・・!山陰本線、多分客車時代に乗ったらもっと楽しかったんだろうな~って思いました。自分の中では一番好きなJRの路線です(^^)
メッセージありがとうございます。 北陸育ちなんですね。私は小学校1年までの6年間山陰の上井と鳥取で暮らしました。小学校2年からは、兵庫県に引っ越したため、山陰とはお別れしたのですが、当時は、DF50の旧型客車が一杯走っていました。父親に鳥取から良く城崎へ連れて行ってもらいました。そんな思い出がある山陰ですが、大学時代から北陸に住むようになり、またまた旧型客車に接する機会が出来ました。でも旧型客車に乗れるのももうあと少しだけ、と思いました。30年ほど前ですら、旧型客車に乗っただけで、なんだか子どもの頃にタイムスリップした錯覚に陥る位でした。 山陰本線は、たしかに北陸本線よりも日本海を見ながら旅を楽しめますね。北陸本線は、意外と内陸部を走り、親不知付近はほとんどがトンネルですもんね。 山陰本線は、いまでもジョイント音の鳴る25mレールなんでしょうか?私は、ジョイント音が鳴る列車が大好きです。
2:00くらいのとことその前。。快速「かんなべ銀嶺」 「はちぶせ銀嶺」という臨時列車?しかも江原駅止まり!!が見れます。こんな列車があったの初めて知りました(江原駅近所住まい)スキー客で賑やかだった頃なので、こんな列車が設定されていたのでしょうね。八伏高原は八鹿駅で全但バス乗り換え、神鍋は江原駅でやっぱり全但バス乗り換えでした。(スキー持ち込みは別料金ってバスの中に書いてありましたね)当時は多数のスキー客対応の為、駅の出札口は5個くらい並んでいました。。で、出札口の真正面に全但バスの停車場があり、すぐ乗り込めるようになっていました。まだ、八鹿駅にもう撤去、封鎖、改造されていますが痕跡があるかなぁ?江原駅は、スキー客を考えてホームから駅舎までが短いながらも広い地下道で繋がっていて、スキーの板を振り回しても余裕のある構造でしたね。当時の但馬のスキー場の賑わいが想像できる貴重な資料です。(今じゃ廃止されたゲレンデも出てきているので。。)ちなみにこの頃は急行やたらめったら多いです。都市部と但馬、丹後を繋ぐビジネス列車という位置づけで利用客が多かったそうです。朝大阪を出て昼に但馬で仕事して夜、大阪に帰る。またはその逆。(今は亡き親父談)1970年は僕の産まれた年ですが、鈍行列車はC57やC58が牽引するSLがまだ居た頃ですよ。ほんとーに鈍行で遅かったと思います。僕らが中学校の時、時刻表見てて話し合っていたのですが急行「白兎」(1:39あたり)って素敵な名前だと思いません?「あさしお」「はまかぜ」「まつかぜ」「丹後」「但馬」「だいせん」・・・とは違って「ちょっと文学的だよね」なんて言っていました。
メッセージありがとうございます。私が、スキーを始めたのは高校2年になってからで、当時奈良に住んでいた私は、急行ちくまで信州方面へスキーに行きました。当然、学校の冬休みや春休みを利用してのユースホステルなんかに泊まってのスキーでした。 神鍋などは、関西からの日帰りの出来るスキー場だったのでしょうね。それだけに乗降客も一杯いたのでしょうね。今は、車社会になってしまってみんな来るまでスキーに行くようで、それにスキー人口も減っているようです。石川県でも2つのスキー場が閉鎖されました。 時代の流れなんでしょうかね。 当時は、急行が多かったのですが、今は特急ばかりですね。結局、今は特急が急行みたいなものかもしれませんね。「白兎」って、ちょっと文学的な名前・・・・・そうですね。山の名前や地名ではなく、物語に出てくるウサギの事をあらわしているのですね。今の時刻表を見ていたら、こんな臨時列車がありました。3月21日に運転された、8051D列車。特急【かにカニはまかぜ】・・・・・(笑)
齊藤克弘さん メッセージありがとうございます。キハ181系のしなのは、けっこう昔ですね。あの当時は食堂車が連結されてて良い時代でした。私は181系のしなのには乗ったことがないのですが、中央本線にデビューした当時は、画期的な高出力の特急用気動車だったようですね。でも、山陰本線の長距離を走る大阪と博多を結んでいた特急には、181系があったにもかかわらず82系を使っていました。これには、何か訳があるかと思うのですがどちらも懐かしい車両になってしまいましたね。
こんにちは、コメントありがとうございます!今は神奈川ですが、北陸といいますか、糸魚川に実家があります。一応北陸北越の沿線なんで糸魚川あたりは「北陸」の範囲に入りますかね(笑)同じ新潟県の長岡や新潟よりも富山県や石川県に文化が近いですし、親近感を覚えますね。上井というのは今の倉吉駅のことですね。3月の旅行で倉吉にもいきましたが、文化の香りが漂うすごくよい町だと思いました。またリピーターで訪れてみたいです。何故か山陰本線の沿線(福知山から松江まで乗りました)は自然環境や風景や風土が糸魚川のあたりに似ていると思いました。懐かしさを感じるんですよね。かえって平野が広がる新潟市あたりや富山市辺りよりも似ていると思います。倉吉に行ったときに地元のおばあさんの語った言葉と糸魚川の言葉が似ていておどろきました。大昔は古代出雲と糸魚川は交流があったそうで、山陰とのつながりがあったのかもしれません。山陰本線は城崎から浜坂のあたりが心地よいジョイント音でまるでディーゼルカーなのに旧型客車に乗っているような錯覚を受けました(^^)海岸線を走る風景は親不知~谷浜のあたりに似ていますね。トンネルが掘られる前の北陸本線があんな感じだったのかもしれません。
メッセージありがとうございます。山陰の方に旅行に行ってこられたそうで、感想をありがとうございます。私は、すっかり撮り鉄になってしまって、あまり乗らなくなってしまいましたが、鳥取の前後は、海の迫った地形の中を走り、糸魚川の前後の海の迫った地形と雰囲気は似ていますね。 ただ、今は北陸本線は複線電化でトンネルの中。おっしゃるように、トンネルが掘られる前は本当に山陰と変わらない風景だったと思います。今は、旧北陸本線は自転車道になっていますが、その横を国道8号が通っていて、私は良くそこをマイカーで走るのですが、海沿いをはしるところは、山陰本線の萩の近くにも、似ているように思います。・・・・・・と言う事は、やがて、山陰本線も複線電化となって、トンネルの中になるのかな?ジョイント音が鳴るって言うのは、私は好きです。 私は、幼稚園の2年間と小学校の1年は鳥取で住んでいましたが、当時の言葉は、もう忘れてしまいました。小学校5年から高校3年まで奈良で過ごしたので、その時に覚えた関西弁の影響が大きくて(笑)。 ただ、僕の家って言うのを、「ぼくげ」って行ってましたね。つまり、家の事を「げ」って言うのです。今はそれだけ覚えています。
昔の時刻表見てるだけでワクワクしてきますね。今この辺走ってるスーパーまつかぜやスーパーおきだけでなく普通列車も1両、2両編成でちょっとさみしい。列車は長い編成のほうがカッコイイ。
スーパーおきやスーパーまつかぜって今時刻表を見たら、2輌なんですね。国鉄時代は、特急って普通は12輌が定番だった見たいですが、この当時、近鉄の特急が2輌で走っていました。ただ、この近鉄の2両の特急は、大阪上本町から名古屋間のノンストップ特急で、停車駅は鶴橋だけなのです。これをスーパーおきに例えると、鳥取と新山口間の停車駅は、山口だけ、と言うような列車になりますね。2輌の特急ってそんな、近鉄のノンストップ特急を思い出しました。今では、近鉄は、もっと両数が増えているようです。ノンストップ特急ってなくなったのかも知れません。
山陰本線は、数回しか乗ったことはありませんが、ここに登場しているキハ82の「まつかぜ」に乗りました。ちなみに、キハ181は「しなの」で乗ったのが最初です。
子供の頃、鉄道大全集に乗ったキハ82型が大好きで 一度でいいから乗ってみたかった…82系のまつかぜや おおとり あこがれでした😌
メッセージありがとうございますキハ82、乗らずじまいだったのですね。このチャンネルで「特急おおとり」のビデオをアップしています。乗って撮影しているカットもありますので、良かったら見てください。また、特急オホーツクの車窓風景もあります。
特急あさしおこれも時々福知山に行く時乗りました。気動車の特急懐かしい
メッセージありがとうございます。そか、今は電化されて電車なんですね。そのうち、気動車で特急なんてありえん・・・て時代になるのかな?
このキハ181系が今でも好きですね。山陰からかなり前に居なくなってしまいましたが映像では不滅な存在ですね。あ、ところでこの動画のbgmですがどちらのサイトから取れますでしょうか。この場で聞いて恐縮です。
この当時は、BGMは、dova-s.jp/DOVA-SYNDROMEを使っていました。ところが、このサイトは、著作権フリーと言う事で使っていたのですが、時々、著作権の侵害の報告を受けて、アップした動画を削除しました。それが、2回あったので、このサイトは私は信用できないので、もう使わないようにしています。もし、このオープニング曲も著作権の侵害が来たら、初期の頃のほとんどの動画は削除することになります。今の所、この曲に対しては、問題ないようですが、気を付けた方が良いと思います。
@@HobbyVideos さん著作権侵害の報告となるとなんかフリーの意味がない気がしますね。
全部の曲が著作権の侵害の報告を受けたわけではないですが、一部の曲が著作権フリーでない曲が混じっていたのか分かりませんが、とにかく、他の曲と同じようにダウンロードして、使っていたのです。
いつも拝見してます 余部鉄橋いいですね 初めて見たのは19の時車でドライブしてた時で驚きました神戸の震災の時あさしおで通過したのが最後で今は新しい橋梁に変わったそうで京都発博多行きの特急乗りたかったです 新幹線も食堂車も無くなり スピード優先である意味ではいいのですが旅情がないです:: 復刻イベントとかないですかね^^
私も、余部鉄橋が新しくなってからは、ネットでしか見た事がありません。食堂車って今はもう時代にそぐわないのかな?昔の特急って全車指定席で席を長時間は慣れていても、自分の席をキープできているし、今では、自由席になると、誰かに座られたりしてしまうと言う時代。食事時間には、長蛇の列が出来たりして、特急なのに、立って並んでいなければ食堂車で食事ができないと言う時もあるし、そう言うこともあって、今は、昔のような旅って無理なのかもしれませんね。
懐かしいですね、ここの登場する『やくも』は後のまつかぜ3号ですね。『あげい』という駅も今はもうないのかもしれないですね、倉吉になったんでしょうね。
メッセージありがとうございます。そうなんです。「あげい」は、「倉吉」と言う駅になっています。「やくも」は、「まつかぜ3号」で走っているのですね。私も、長い間山陰方面には行ってないので、状況がもう全然分かりません。久しぶりに行ってみたいなって思っているのですが、なかなか足が進みません。やはり、魅力ある列車が走っていないせいなのでしょうか。でも、本当は、今現在は今現在として撮影しておくと、後に貴重になるのですがね。
1984年1月22日 冬の山陰路を走っていた特急列車の映像ですね、キハ82系・181系特急形気動車を使用した、「まつかぜ」・「はまかぜ」・「あさしお」が続々登場した映像ですね、上手に撮影されておりますよ、気に入りました、国鉄時代の鉄道ファンさん、お見事です。
メッセージありがとうございます。この当時は、もうキハ82は、まつかぜの1往復だけになってしまい、ほとんどがキハ181系になっていました。でも、いつも思うのですが、なぜか、大阪から博多まで行く、長距離特急が古い82でそれ以外の大阪・京都から鳥取、米子までの列車が新しい181系を使っていたのでしょうね。不思議と言えば不思議ですね。
特急列車が貴重だったころは、国鉄の特急列車の車掌の制服も白のスーツで、何か違った感じがしました。なぜ、こんなコメントをしたのかといえば、昨日、私用で東武の浅草駅に行ったのですが、特急スペーシアの(12時30分発)の車掌の制服が白いスーツだったからです。今では急行がはまなすだけとなり、JR各社の優等列車は特急のみであり、JR東日本では確か、専用の制服ではないと思います。昔は昔で、よかったなあ~とこの動画で感じます。
メッセージありがとうございます。そか!そう言えば特急ひだの車掌も白っぽい制服でしたね。列車ばかり写してないでたまには車掌も撮影する必要があったのですね。服装にも昔と今ってあると言う事ですね。ちなみに北斗星やカシオペアは、いくらなんでも違うでしょうね。
国鉄時代の鉄道ファン車掌やホームの放送も「特別急行」、そう、庶民には急行が当たり前の時代で、読んで字のごとく、特急列車は「特別な急行」だったのかもしれませんね。(自分は両親が山梨出身なので、甲府まで行く際は、距離が短いため、ほとんどが新宿発着の115系の普通列車で、165系の急行に乗れるだけでうれしく、あずさの183系は乗った記憶はなかったです。ちなみにこの当時の日中の新宿発着の普通列車には東京方に郵便車が連結されていた記憶が鮮明に残っています。)小生は関東在住の今年42歳の生まれてからの鉄っちゃんです。今は高速道路が充実し、JRもバスとの価格競争で回数券の充実などで、高速バスにプラスアルファーな価格で特急列車に乗れるようになっていますね。(新宿~甲府間が自由席であれば、あずさクーポンで2500円くらいかな?高速バスは2000円、かいじ限定なら、さらに安いですからね。)
tsuka5116 さん メッセージありがとうございます。そうそう、昔は特急が特別な急行だったのですね。私の時代も、特急が少なく急行がいっぱい走っていた時代でした。昔は、急行と普通は、車両は向かい合わせのクロスシーとで直角の椅子。だけど、急行は停車駅が少ないというだけだったので、急行だったのかも知れませんね。そして、特別急行は、窓が開かない 冷暖房付き 転換クロスシートで進行方向に全員座れる。急行よりも停車駅が少ないなどなど、特別と言うにふさわしいサービスでした。でも、今は、通勤電車にもクーラーが付いて、下手したら窓もあかない。この辺は、特別急行のサービスに近づいてきていて、これらのサービスが、特別ではなく当たり前のサービスになってしまった今日、さらに、昔 急行ですら通過していた駅にも停車する特急。これって特急と言えるのでしょうか?余談ですが、昔は特別急行のさらに上があったのですよ。スーパー特別急行・・・・・超特急です。東海道新幹線開業当時、こだまは、特急 ひかりが超特急だったのです。
国鉄時代の鉄道ファン東海道新幹線開業当時にJR化後、ブーム?となったスーパー〇〇の起源があったのですね(笑)何かの本で読みましたが、特急に乗車の際に、空調が故障していた場合は、払い戻しの対象になるとのことで、これも、特別なサービスだったということなんでしょうね。(下手をすれば、急行型の153系のグリーン車ですら、冷房がなかったと思いますから。)小生の心の中では、超速達運用が本当の特急列車と思っています。(はくたか2号に乗った時は嬉しかったです。しかし、福井~大阪移動の時にサンダーバードに乗った際は、敦賀までの停車駅の多さに少しショックでした。時刻表で例えば、大阪、新大阪、京都、福井、金沢、高岡、富山にしか止まらないサンダーバードを見ると、感動します。中央本線では新宿、八王子、甲府、茅野、上諏訪、松本のスーパーあずさですかね。)ちなみに小生の地元の東武鉄道ではごくまれに、スペーシア(100系)やりょうもう(200系)が車両運用の都合で、代走があるようで(100系は350系、200系は1800系での代走)この時には特急券が払い戻しされるようです。まあ、東武(本線系統)は特急料金が3パターン(スペーシア、りょうもう、きりふり(しもつけ))とあり、10年近く前まで、私鉄で唯一、特急料金と急行料金があったので仕方がないと思いますが。長々、すいません。
tsuka5116 さん メッセージありがとうございます。言われる通り、超速達運用が本来の特急・・・・・ですから、いっぱい停車する特急なんてどうなのかな?って思います。昔、旧型客車の急行越前、475系の急行立山、くずりゅう、兼六、キハ25・58系の大社が通過していた駅に、少ない本数ですが停車する特急があります。その反面、サンダーバードで止まらないやつがあるのです。ヨンダーバードって言うのですが・・・・・・(止まるヨンダーバードの方が多い)大阪 新大阪 京都 福井 金沢 高岡 富山 サンダーバード7号11号です。東武鉄道は、あまり良く分かりませんが、インターネットで画像検索すると、座席が少し違うくらいで、そんなに払い戻しするほどでもないと思うのですが。でも、その方が、安く移動できて良い人もいるかも知れませんね。
昭和45年の時刻表、貴重な物をありがとうございます。万博輸送が落ち着いた頃ですね。銀嶺とつくのはスキー臨ですね。列車番号が博多まつかぜでも1000番代ですね。気動車特急はまだ山陽特急の方が一桁の時代だったと思います。かもめ、なは・日向、白鳥もあった頃ですね。この頃は急行列車の増結はキハ55系もあったりしました。博多まつかぜが80系で残っていたのは、181系が初期故障が多くて、名古屋や尾久で手を焼いていた名残りだと思います。又、キハ181にはトイレ設備が無かったのでそれも考えられます。関門トンネル通るので冷却問題も考えられました。なにせ国鉄時代でしたので色々とあった様です。やくもは山陽新幹線岡山開業で伯備線のL特急にシフトしています。大阪しなのは381系に変わっても暫くは181系が残りました。キハ80系は181系に比べて車両の作りも良かった様に思います。初期のグリーン車はヘッドレストが動きました。これはかもめのグリーン車で動かした事があります。キハ80系は国鉄技師の星晃先生の手がけた名車でしたから博多まつかぜが最後迄残ったのは嬉しい限りでした。いつも長くなってしまい申し訳ありません。貴重な映像をありがとうございます。
メッセージありがとうございます。そか、万博輸送が落ち着いた頃なのですね。博多行のまつかぜが、キハ181系が使われなかったのは、こんな理由が挙げられるのですね。なんか、良く聞く話ですが、「蒸し風呂特急しなの」って長野の人たちがあだ名をつけたようで、特急しなのは、よく発電用エンジンが止まったそうです。安曇野に友達がいた時、その友だちの家に遊びに行って帰り特急しなのに乗って帰る時にその友だちにこう言われました。「昔は特急しなのは蒸し風呂特急しなのって言われてクーラーが良く止まったけど、今は電車になってよかったね」ってね。でも、私の乗った381系大阪行しなのは、野洲を通過したころに室内灯が消えて蒸し風呂特急になりました。30分ほど最寄りの駅に停車して、復旧し発車したのですが、笑ってしまいました。キハ82は、その前のキハ81が、「はつかり・がっかり・事故ばっかり」って言われるくらい初期故障が多かったようで、そのリベンジを言う事で作られたキハ82だから、それなりに北海道から鹿児島まで活躍する名車となったのかもしれませんね。そうそう、余談ですが、特急つばさのキハ181系に乗ったときも板谷峠で蒸し風呂特急になりました。そして、新庄を発車した後、上野行きの特急つばさが、四ツ小屋で脱線しました。でも、脱線は線路が悪かったようですね。でも、末期はそんなに故障って聞かなくなりましたね。長くなtって申し訳ありません。
どの時刻表だったか浜村を通過する夜行普通列車があったみたいですよ夜行普通列車も大阪発と京都発の2本立てであったみたいですよ
メッセージありがとうございますそうなんですか?私は、もっぱら京都発の夜行列車しか乗ったことが無いのです。
今も山陰本線は特急が少し多いですがよく思えば昔から急行などが多く、そのなごりなのかなと思います
メッセージありがとうございますなるほど。普通列車はもうあまり利用する人はいないのかな?高校生とか、クルマに乗れない人くらいで、ほとんどクルマでの移動になってしまっているのでは?
こんにちは。私は1971年生まれなので、この時の時刻表は知らないのですが、当時は『まつかぜ』も『やくも』も「全席指定」だったのですね。『特別急行』の風格というのでしょうか。今の特急とは違う、やはり"特別な"急行だったのですね。この時刻表を動画から拝見させていただいていて、極めて初歩的な疑問で申し訳ないのですが・・・「さんべ2号」や「ちどり2号」の下に『◎(の真ん中に点)』のような記号がありますよね?また、急行列車を見ていると『☓』の形に似てるというのでしょうか、グリーン指定席とは違う・・・これらの記号のこと、またお時間のある時にで構いませんので、教えていただければお願いいたします。私も子どもの頃、時刻表はほんと、見ていて飽きないほどずっと見ていた愛読書だったのですが、私が見ていた時刻表ではもう、例えば寝台車では「☆」「☆☆」「☆☆☆」の記号表記になっていたものだったので。しかし、時刻表というものはいつの時代のものも本当に面白いものですね。『はまかぜ』が登場するのは1972年の3月からですし、『やくも』が『まつかぜ』の補完をし、新大阪から福知山線経由で山陰本線を突っ走っていたのですものね。
jxfds369 さん メッセージありがとうございます。1970年12月の時刻表なんですが、私の持っている一番古い時刻表なんです。まあ、この当時は、中学2年で、この頃から、時刻表を見るようになったようですね。それで、花びらみたいなXのマークですが、時刻表には-----------------------------------------------------------------------------------閑散期の平日は指定料金が100円になる列車。(閑散期の平日とは1月10日→3月20日・5月10日→7月20日・9月1日→12月20日の休日と休日の前日を除いた日)-----------------------------------------------------------------------------------と記載されています。また、◎に・がある列車は、-----------------------------------------------------------------------------------年間指定料金が100円になる列車-----------------------------------------------------------------------------------と記載されています。いや~でも、この時刻表のほんの一部を見ただけで、こんなに質問が出るなんて、さすがですね。私なんか、全然気にしていませんでした。昔は特急と言えば、全車指定が当たり前だったようです。それが、1日に1往復しか走って無かったりして、特急に乗ると言う事は、本当にすごい事だったのです。一般庶民は急行、仕事で移動する人は特急ってな時代だったのかもね。
国鉄時代の鉄道ファン さんありがとうございました。とても参考になりました。私が子どもの頃見ていた時刻表では、うしろのほうの「きっぷ」のページで、それぞれ煩忙期、通常期、閑散期で指定料金だったでしょうか、特急料金だったかが変わることが書かれてたように記憶していますが、その頃の時刻表では、ひとつひとつの急行列車にそういう風に記されていたのですね。いわゆる今でいうところの「A特急料金」「B特急料金」みたいなものの、急行版みたいなものでしょうか。(時刻表が)下ること、例えば、私たちの頃は、寝台列車で記されていたあの時刻表のマークも、寝台急行では白黒が反転した物でしたが、私が70年代の時刻表の記号がわからなかったように、寝台急行がなくなった現在、それらもまたわからなくなる世代が出てきたりするのでしょうね。寝台特急のあの時刻表のマークも時間の問題なのでしょうか・・・。それを思うと、なんだか、寂しく感じますね。話が逸れて失礼をいたしました。
jxfds369 さん メッセージありがとうございます。時刻表には、すごく詳しいですね。JRになってからは、JRの時刻表とJTBの時刻表が出てきたのですが、特急の記載方法がそれぞれ違うのです。JRの時刻表は、特急は赤で2色で表示し、JTBは、特急の時刻の横に太線が引かれるようになったのです。私は、列車ばかりを追いかけていますが、列車の変化に伴って、時刻表もその時代時代で変化していっているのですね。それと、昔の時刻表は、値段も安かった(笑)のと同時にもっと薄かったですね。列車本数が少なかったと言ってしまえばそれまでなんですが、記載方法にも、違いがあったかも知れません。
すいません、北陸北越→北陸本線です(笑)そういえば、北越は新幹線開業でなくなっちゃうんでしょうかね・・?
メッセージありがとうございます。聞いた話なんですが、「北越」も廃止になるって聞きました。ちなみに、今日の未明にW7系の2編成目の陸送が終わりました。私は、仕事だったので、4日めの10号車から12号車の3輌しか撮影出来ませんでした。でも、平日の真夜中の1時から3時の時間に、女性も、男性も子ども連れで良く、見に来ますね。私は、次の日、お休みだったから行けたのですが・・・・
山陰路は岡山発になった「やくも」がまず181系化して、その次が多分「はまかぜ」で、次に「あさしお」かな。多分篠山口~福知山間より綾部~園部間の方が山深いと考えたのだろうと思います。
メッセージありがとうございますなるほどね、初めの頃は、西の方に181系が走っていた時代、あさしおは、80系でしたからね。でも、どういうわけか、長距離のまつかぜだけが、80系で走っていた。181系も食堂車があったのに。
キハ181懐かしいですね。
メッセージありがとうございます。そうですね、当時はキハ80系が少なくなってきて、キハ181系ばかりだったのに、今はもう懐かしい時代なんですね。時の流れは速いものです。
キハ181系が無くなって寂しいですよね。(´;ω;`)今のキハ189系はなんだかなぁと
メッセージありがとうございますまあ、国鉄時代に作られた車両は、どこかこだわりと言うか、国鉄仕様って言う決まりがあって、その枠にはまった設計をしていたようにも思います。私鉄になって、そういう枠がなくなり、自由な発想での設計になり、これがいまいちいただけないって言うところがあるのではないでしょうか?つまり、特急のマーク(くちばしのようなもの)ヘッドマークなど、こういうものもなくても良いと言うのが、国鉄時代とは違った枠にとらわれないスタイルになり、昔からの国鉄の特急車両を見ている人からは、いまいち って思うのかもしれません。
ディーゼル特急のプラレール欲しいです。
キハ181なら売っているとおもいますよ。
ディーぜル特急のプラレールが欲しいです。
キハ181は、売っていないかな?
時刻表の列車、名列車ばかりですね。京都発下関行きの列車のダイヤは、初めて見ました。今や偉大なるローカル線といわれていますが、昔はそんなことなかったんですね。
メッセージありがとうございます。私も、1970年の時刻表なんて、じっくりと山陰本線を見た事はなかったのですが、たまたま家に有ったので見てみると、こんな感じでした。 偉大なるローカル線って言われているのですか?でも、まだ特急もいっぱ走っているし、まだまだ行けそうですよ。来年、北陸新幹線が開業して、北陸本線が、第3セクターになったら、山陰方面の撮影に、行ってみたいですね。
両親が東郷町と倉吉出身でよく倉吉駅と松崎駅に写真を撮りに行きましたね!
82系まつかぜ、あさしおなど、帰省していく内に181系に代わっていきましたね。
今でもHOゲージの181系があり45年ぶりに走らせました、やっぱりいいですね😊
懐かしいです。親戚の叔父や従兄弟が国鉄マンでしたので影響が大きいですね。
いつも色々見せて頂いてます。
妻が倉吉出身ですので、最近は帰省したらスーパーはくとですね!
でもやっぱり国鉄時代ですね😊
懐かしいビデオ見せて頂いてます。
そうですか、倉吉駅は、昔は上井駅と言う名前だったのですよ。
その時、私は保育園くらいの子どもでしたけど、山陰本線に初めて特急が走った日、上井駅まで父に連れられて見に行きました。私は、倉吉出身と言うわけではなく、おやじが転勤族だったので、3年間だけ、そこに住んでいたのです。でも、この時見た、特急まつかぜは、忘れられません。
HOゲージの181系があるのですね。
私は、13mmゲージの80系82型があります。もう1輌作らないとダメなんですがね。
@@HobbyVideos ご返信、ありがとうございます。😊
”国鉄時代の鉄道ファン”のフレーズから始まり柔らかいナレーションで時代背景の語りが心地よく、
懐かしく楽しく!観させていただいてます。😀
語りを聴いていると国鉄マンだったのでしょうか?鉄道模型の動画も見させて頂いてます。
私は61年生まれです。
私もキハ82系の思い出が多いです。大阪を8:00発で倉吉まで小学校時代1人でよく帰省していました。
また、9:00時代発のはまかぜ1号にも乗車することもありましたね!
小学生の頃、倉吉線はc11🚂が客車を引いていました。
82系は鳥取駅から博多からと連結し13両編成は圧巻でした。窓からカーブで先頭車が余裕で見ることか出来ました。
長編成は最高でした!
一度お会いしたいと思う印象深いナレーションで、本当にお会いできたらと思います。
鉄道模型等のお話もできたらと思っております。(色々教えて頂けたらと思います)
今エンドウのDD54があるので”出雲”を組みたいな〜と思っています。😄
これからも温かいナレーションの動画楽しみにしております。
追伸
失礼いたしました。そうなんです!昔は上井駅でした。懐かしいです。
父の実家が引地というところで燕趙園の近くで高速で通過するスポットなのでよく写真を
撮りに線路近くに行きました。😀
なるほど、倉吉線のC11は、1度だけ乗りました。
高校になって、ユースホステルの春の高校ホステリングと言う、行事で、京都から普通の出雲市行夜行で倉吉に着いたら、すぐに連絡していて、乗ったのです。貨物と客車が連結されてて、ゆっくりと走っていましたね。
懐かしいです。
島根県益田市の出身です。
まつかぜ、おき、やくもが当時走ってました。
181系も良いけど、自分的にはまつかぜの82系です。
80年のゴールデンウイーク、小学校6年の時
親に頼みこんで、益田~米子まで乗った上りのまつかぜが
忘れられないです。食堂車キシ80での食事はハードル高すぎて
実現しませんでしたが、未だに良いお想いでです。
貴重な映像をありがとうございます❗
そうですか。
この当時、キハ181系の方が新しいのに、古い80系を長距離の大阪と博多間に使っていました。
なぜなんだ!
っと私のチャンネルにメッセージを頂いた人に尋ねたら、キハ181系は故障が多かったらしいです。
つまり、80系の方が、良い車輛だったみたいですね。
でも、80系も最初は故障が多かったみたいで、特急はつかりで走り始めたキハ81が、
はつかり・がっかり・事故ばっかり
なんて、言葉が流行ったらしいですね。
それで、作り替えられたのが80系82型だったそうです。
キハ181系は、特急しなのでは、発電用エンジンが良く止まり、
蒸し風呂特急しなの
などと、言われてたみたいです。
最後の博多発、新大阪行きまつかぜには、乗ったことあります。博多〜山陰本線経由の、島根県大田市まで。食堂車で、お茶しました、
お~! 私は、まつかぜは、大阪から城崎まで1回だけ乗っただけです。
当時の山陰線は素敵な列車が沢山運行されていましたね。母の実家が島根の浜田でしたので、京都から「まつかぜ号」でよく行っていました。
また急行時代の「出雲号」、急行「だいせん」普通「山陰号」にもよく乗車しました。
かんなべ号、はちぶせ号はスキーのお客さまでいっぱいでした。
本当に懐かしいダイヤですね、
当時のダイヤを見るだけでワクワクします。
京都から浜田と言うと、キハ82の博多行の「まつかぜ」ですね。
私は、小学校1年の頃鳥取に住んでいたので、その頃の思い出は、1日に1往復の「まつかぜ」と、キハ28・58などの、急行、それにDF50牽引の普通列車としか覚えが無いのです。
高校くらいになって、再び山陰に普通「山陰号」で行きました。
でも、京都から浜田って遠いですね。でも山陰の日本海をみて、鉄道の旅を十分楽しめたのではないでしょうか。
1984撮影で編集が2014とは凄い4繋がり
この時の82と181が混走していたんですね
今だは懐かしい映像ですね
82も181も80も現在の気動車を改造してリアルに再現して欲しいものですね
まあ4繋がりは、偶然であまり意識していないです。
聞くところによると、181は、良く故障したみたいですね。
昔の「まつかぜ」
大阪8時で
博多がよるの8時
12時間も掛かるのか❗
そうですね。昔はこれが当たり前だったのです。
懐かしい‼️良く京都発、山陰号に乗って出雲市迄一人旅しました。
私は昭和43年生まれなので、やくもが新大阪発なんて知りませんでした❗️
感動しました‼️
山陰号ですか。昔は、山陰号って言う名前も無く、夜行普通列車の出雲市行きだったのです。
私も、2~3回、乗りました。
中学生の頃、塚口の北側でよく「やくも」を見に行きました。三菱電機、未舗装路、なんの仕切りもなくバラストが盛り上がってるだけ。車輪だらけのシキ400が道端に留置してあって、チョコっと登ってみたり。放課後に自転車で行けば「やくも」に間に合いました。レールに向かい合って時間潰し?喋ってると遠くでフォ~ン。塚口で制限があるのでいつもアイドリングで通過、ホロをユサユサけっこう縦に揺れて怪しげな排水垂らしながら。ブレーキディスクの輝きが印象的でした。残念ながら「まつかぜ」は日没後なので見たことはありませんでしたが。
キハ181系ですね。この車両、ターボの音が鳴るのですが、アイドリングで通過だと残念ながら聞けませんね。
ブレーキディスクのかがやきと言うと、車輪がブレーキディスクになっているのですね。
このころは伯備線電化でキハ181系が米子から向日町に転属して博多まつかぜ以外の山陰特急を全て置き換えた時期ですね。
その時私は高校生で鉄ちゃん全開で楽しい時期でした。あの頃は大阪駅に1日いても飽きませんでしたからね。
今じゃ同じ様なのしか来ないから乗りと撮りは殆どやめて模型専門になりました!(笑)
なるほど、私と同じような感じですね。
でも、スーパーはくととか変わった車輛がこないですか?
まあ、昔は大阪駅に急行も走っていた時代など、やっぱり色んな列車、車輛が見れましたね。
下関発福知山行きなんてのもいた記憶があります。
DD51の引く旧型客車(40系や61系)に乗って、今やトロッコ路線の山陰旧線や廃線となった福知山旧線(どっちも山岳部電化の際に新線化した)を通ったのも懐かしい思い出です。
メッセージありがとうございます。
山陰旧線や福地線旧線など、今の山陰本線のすべてを、複線電化して、もっと高速運転できるようにしないと車社会に負けてしまうように思います。
貴重な映像、ありがとうございます。懐かしい思いで見させていただきました。
小さい頃、丹後半島へ行く時は豊岡まで“はまかぜ”や、急行の”但馬”に乗りました。今から思っても、昔は、本当に色々な名称の特急が走っていたのですね。
チャンネル登録させていただきました。今後もよろしくお願いいたします。
わら チャンネル さん メッセージありがとうございます。
それだけ、利用客もいたのでしょうね。
最近の山陰には、全然行っていないので、良く分かりませんが、余部鉄橋が新しくなったり、なんか2輌の特急が走っているとか・・・・
ずいぶん変わったのでしょうね。
私がキハ181系に初めて乗ったのが平成5年に四国に行った時でした。この数日後キハ181系は四国から引退しました。私は千葉に住んでいるため、キハ181系はおろか気動車特急に乗るというのがなかなかありませんでした。そのため、気動車特急に乗ったのもこの四国が初めてでした。
メッセージありがとうございます
キハ181系が初めて乗った気動車特急だと言う事ですね。
それも引退直前と言う事で、その時期だとすでに新しい気動車特急が走っていて、キハ181系は、見劣りしたのではないでしょうか?
キハ82のまつかぜ懐かしいですね!あさしおはこの頃には181系に変わっていたのですね、母の田舎、島根に帰る時181系のおき、やくもを見て興奮して一生懸命にカメラを構えたのを思い出します。
この時代は、キハ82は、大阪と博多の長距離列車1往復だけで、全て181系に変わっていました。
長距離列車を古い82系を使っているのは、181系は、故障が多かったらしいですね。
つまり、古い80系の方が良かったと言う事かな。
山陰本線の駅のすぐ前に当方の田舎があり、よく列車を眺めていました。その頃は特急といえばキハ82系で松風は食堂車付きの豪勢なものでした。それがキハ181系になった途端、しょぼく感じた覚えがあります。(「やくも」には食堂車のキサシがあったのに…)
ターボ音を響かせて走る国鉄特急色のキハ181系たまりません。国鉄特急色には品格があってよかったですね。
メッセージありがとうございます。
そうですね。
あの、国鉄特急色って、東海道本線の特急こだまで始まった色。
つまり、国鉄の電車特急の最初に塗られた色ですが、あの色って、春夏秋冬いろんな季節の中、いろんな風景の中を走ると、とってもきれいに見えるんですね。
私も、昔のビデオを見ながら、いつもそう思います。
いつも楽しく拝見させていただいてます!
自分は平成生まれなので国鉄型を国鉄時代に見たり乗ったりしていないのでいつも国鉄時代の鉄道ファンさんの映像を参考にさせてもらってます!
自分はキハ181形が国鉄型の気動車の中で1番好きなので、今回の映像はとてもワクワクしました!ターボのときのエンジン音が最高ですね!!
こちらこそ、メッセージありがとうございます。
私の友達にもキハ181系が大好きと言う人がいました。
その人は、今までキハ82ばかり見ていて、長野に行くのに親に特急しなのに乗せてもらったのがきっかけらしいのです。
私は、キハ82の方が好きなんですが、キハ181系との外景の微妙な違いなんかは、鉄ちゃんにとってはたまらないですね。
でも、どういうわけか、北海道には走らなかったのが残念です。
また、なぜか古いキハ82が長距離の博多行のまつかぜに使われ、なぜ新しいキハ181系が使われなかったのか、不思議です。
ターボの音は、聞くところによると山陽本線を走行している時が、一番良く鳴っていたようです。
まつかぜ復活させるべき博多新大阪
それは、移動目的の列車としては、無理かもしれませんね。
今はやりの観光列車として、復活させるのならあり得るかも。
そうなると、私の希望では、外観の形は、昔のキハ82型、車内は観光列車の車内と言うのがいいかもね。
こんにちは
懐かしいですね
時刻表で
下関と京都間は京都夜行と言ってました
他に鈍行で門司と西舞鶴間も走ってましたねぇ
懐かしいです
+oomori s さん メッセージありがとうございます。
京都夜行って言っていたのですか?
今は、すっかり様変わりしてしまったみたいですね。
門司と西舞鶴間なんて、今では想像も付かないし、旧型客車が走っていたなんて、これまたもう知らない人も増えているのではないかと思います。
山陰本線の昔の時刻表が興味深かったです。京都発下関行き普通列車なんてあったんですね。。。タイムスリップできるのなら山陰本線の客車列車に乗って旅行してみたいです。門司発福知山行きなんて列車もありましたよね。私は北陸で育ったので、山陰本線にはほとんど縁がありませんでしたが、3月に青春18きっぷで神奈川から島根まで旅行しました。京都から山陰本線に乗りましたが、同じ日本海側ながら北陸とは似て非なる旅情と風情を感じました。車窓も飽きることがありませんよね、
北陸本線は海が見える区間はごくわずかで旅情という点では物足りない気がします。列車のスピードは山陰に比べるとはるかに速いですよね・・!
山陰本線、多分客車時代に乗ったらもっと楽しかったんだろうな~って思いました。自分の中では一番好きなJRの路線です(^^)
メッセージありがとうございます。
北陸育ちなんですね。私は小学校1年までの6年間山陰の上井と鳥取で暮らしました。小学校2年からは、兵庫県に引っ越したため、山陰とはお別れしたのですが、当時は、DF50の旧型客車が一杯走っていました。父親に鳥取から良く城崎へ連れて行ってもらいました。そんな思い出がある山陰ですが、大学時代から北陸に住むようになり、またまた旧型客車に接する機会が出来ました。でも旧型客車に乗れるのももうあと少しだけ、と思いました。30年ほど前ですら、旧型客車に乗っただけで、なんだか子どもの頃にタイムスリップした錯覚に陥る位でした。
山陰本線は、たしかに北陸本線よりも日本海を見ながら旅を楽しめますね。北陸本線は、意外と内陸部を走り、親不知付近はほとんどがトンネルですもんね。
山陰本線は、いまでもジョイント音の鳴る25mレールなんでしょうか?私は、ジョイント音が鳴る列車が大好きです。
2:00くらいのとことその前。。
快速「かんなべ銀嶺」 「はちぶせ銀嶺」という臨時列車?しかも江原駅止まり!!が見れます。
こんな列車があったの初めて知りました(江原駅近所住まい)
スキー客で賑やかだった頃なので、こんな列車が設定されていたのでしょうね。
八伏高原は八鹿駅で全但バス乗り換え、神鍋は江原駅でやっぱり全但バス乗り換えでした。(スキー持ち込みは別料金ってバスの中に書いてありましたね)
当時は多数のスキー客対応の為、駅の出札口は5個くらい並んでいました。。
で、出札口の真正面に全但バスの停車場があり、すぐ乗り込めるようになっていました。
まだ、八鹿駅にもう撤去、封鎖、改造されていますが痕跡があるかなぁ?
江原駅は、スキー客を考えてホームから駅舎までが短いながらも広い地下道で繋がっていて、スキーの板を振り回しても余裕のある構造でしたね。
当時の但馬のスキー場の賑わいが想像できる貴重な資料です。
(今じゃ廃止されたゲレンデも出てきているので。。)
ちなみにこの頃は急行やたらめったら多いです。
都市部と但馬、丹後を繋ぐビジネス列車という位置づけで利用客が多かったそうです。朝大阪を出て昼に但馬で仕事して夜、大阪に帰る。またはその逆。(今は亡き親父談)
1970年は僕の産まれた年ですが、鈍行列車はC57やC58が牽引するSLがまだ居た頃ですよ。ほんとーに鈍行で遅かったと思います。
僕らが中学校の時、時刻表見てて話し合っていたのですが急行「白兎」(1:39あたり)って素敵な名前だと思いません?「あさしお」「はまかぜ」「まつかぜ」「丹後」「但馬」「だいせん」・・・とは違って「ちょっと文学的だよね」なんて言っていました。
メッセージありがとうございます。
私が、スキーを始めたのは高校2年になってからで、当時奈良に住んでいた私は、急行ちくまで信州方面へスキーに行きました。当然、学校の冬休みや春休みを利用してのユースホステルなんかに泊まってのスキーでした。
神鍋などは、関西からの日帰りの出来るスキー場だったのでしょうね。それだけに乗降客も一杯いたのでしょうね。今は、車社会になってしまってみんな来るまでスキーに行くようで、それにスキー人口も減っているようです。石川県でも2つのスキー場が閉鎖されました。
時代の流れなんでしょうかね。
当時は、急行が多かったのですが、今は特急ばかりですね。結局、今は特急が急行みたいなものかもしれませんね。
「白兎」って、ちょっと文学的な名前・・・・・そうですね。山の名前や地名ではなく、物語に出てくるウサギの事をあらわしているのですね。
今の時刻表を見ていたら、こんな臨時列車がありました。
3月21日に運転された、8051D列車。
特急【かにカニはまかぜ】
・・・・・(笑)
齊藤克弘さん メッセージありがとうございます。
キハ181系のしなのは、けっこう昔ですね。
あの当時は食堂車が連結されてて良い時代でした。
私は181系のしなのには乗ったことがないのですが、中央本線にデビューした当時は、画期的な高出力の特急用気動車だったようですね。
でも、山陰本線の長距離を走る大阪と博多を結んでいた特急には、181系があったにもかかわらず82系を使っていました。これには、何か訳があるかと思うのですがどちらも懐かしい車両になってしまいましたね。
こんにちは、コメントありがとうございます!
今は神奈川ですが、北陸といいますか、糸魚川に実家があります。一応北陸北越の沿線なんで糸魚川あたりは「北陸」の範囲に入りますかね(笑)同じ新潟県の長岡や新潟よりも富山県や石川県に文化が近いですし、親近感を覚えますね。
上井というのは今の倉吉駅のことですね。3月の旅行で倉吉にもいきましたが、文化の香りが漂うすごくよい町だと思いました。またリピーターで訪れてみたいです。何故か山陰本線の沿線(福知山から松江まで乗りました)は自然環境や風景や風土が糸魚川のあたりに似ていると思いました。懐かしさを感じるんですよね。かえって平野が広がる新潟市あたりや富山市辺りよりも似ていると思います。倉吉に行ったときに地元のおばあさんの語った言葉と糸魚川の言葉が似ていておどろきました。
大昔は古代出雲と糸魚川は交流があったそうで、山陰とのつながりがあったのかもしれません。
山陰本線は城崎から浜坂のあたりが心地よいジョイント音でまるでディーゼルカーなのに旧型客車に乗っているような錯覚を受けました(^^)海岸線を走る風景は親不知~谷浜のあたりに似ていますね。トンネルが掘られる前の北陸本線があんな感じだったのかもしれません。
メッセージありがとうございます。
山陰の方に旅行に行ってこられたそうで、感想をありがとうございます。
私は、すっかり撮り鉄になってしまって、あまり乗らなくなってしまいましたが、鳥取の前後は、海の迫った地形の中を走り、糸魚川の前後の海の迫った地形と雰囲気は似ていますね。
ただ、今は北陸本線は複線電化でトンネルの中。おっしゃるように、トンネルが掘られる前は本当に山陰と変わらない風景だったと思います。今は、旧北陸本線は自転車道になっていますが、その横を国道8号が通っていて、私は良くそこをマイカーで走るのですが、海沿いをはしるところは、山陰本線の萩の近くにも、似ているように思います。
・・・・・・と言う事は、やがて、山陰本線も複線電化となって、トンネルの中になるのかな?ジョイント音が鳴るって言うのは、私は好きです。
私は、幼稚園の2年間と小学校の1年は鳥取で住んでいましたが、当時の言葉は、もう忘れてしまいました。小学校5年から高校3年まで奈良で過ごしたので、その時に覚えた関西弁の影響が大きくて(笑)。 ただ、僕の家って言うのを、「ぼくげ」って行ってましたね。つまり、家の事を「げ」って言うのです。今はそれだけ覚えています。
昔の時刻表見てるだけでワクワクしてきますね。
今この辺走ってるスーパーまつかぜやスーパーおきだけでなく
普通列車も1両、2両編成でちょっとさみしい。
列車は長い編成のほうがカッコイイ。
スーパーおきやスーパーまつかぜって今時刻表を見たら、2輌なんですね。
国鉄時代は、特急って普通は12輌が定番だった見たいですが、この当時、近鉄の特急が2輌で走っていました。
ただ、この近鉄の2両の特急は、大阪上本町から名古屋間のノンストップ特急で、停車駅は鶴橋だけなのです。
これをスーパーおきに例えると、鳥取と新山口間の停車駅は、山口だけ、と言うような列車になりますね。
2輌の特急ってそんな、近鉄のノンストップ特急を思い出しました。
今では、近鉄は、もっと両数が増えているようです。ノンストップ特急ってなくなったのかも知れません。
山陰本線は、数回しか乗ったことはありませんが、ここに登場しているキハ82の「まつかぜ」に乗りました。ちなみに、キハ181は「しなの」で乗ったのが最初です。
子供の頃、鉄道大全集に乗ったキハ82型が大好きで 一度でいいから乗ってみたかった…
82系のまつかぜや おおとり あこがれでした😌
メッセージありがとうございます
キハ82、乗らずじまいだったのですね。
このチャンネルで「特急おおとり」のビデオをアップしています。乗って撮影しているカットもありますので、良かったら見てください。
また、特急オホーツクの車窓風景もあります。
特急あさしおこれも時々福知山に行く時乗りました。気動車の特急懐かしい
メッセージありがとうございます。
そか、今は電化されて電車なんですね。
そのうち、気動車で特急なんてありえん・・・て時代になるのかな?
このキハ181系が今でも好きですね。
山陰からかなり前に居なくなってしまいましたが映像では不滅な存在ですね。
あ、ところでこの動画のbgmですがどちらのサイトから取れますでしょうか。
この場で聞いて恐縮です。
この当時は、BGMは、
dova-s.jp/
DOVA-SYNDROMEを使っていました。
ところが、このサイトは、著作権フリーと言う事で使っていたのですが、時々、著作権の侵害の報告を受けて、アップした動画を削除しました。
それが、2回あったので、このサイトは私は信用できないので、もう使わないようにしています。
もし、このオープニング曲も著作権の侵害が来たら、初期の頃のほとんどの動画は削除することになります。
今の所、この曲に対しては、問題ないようですが、気を付けた方が良いと思います。
@@HobbyVideos さん
著作権侵害の報告となるとなんかフリーの意味がない気がしますね。
全部の曲が著作権の侵害の報告を受けたわけではないですが、一部の曲が著作権フリーでない曲が混じっていたのか分かりませんが、とにかく、他の曲と同じようにダウンロードして、使っていたのです。
いつも拝見してます 余部鉄橋いいですね 初めて見たのは19の時車でドライブしてた時で驚きました
神戸の震災の時あさしおで通過したのが最後で今は新しい橋梁に変わったそうで
京都発博多行きの特急乗りたかったです 新幹線も食堂車も無くなり スピード優先である意味ではいいのですが旅情がないです:: 復刻イベントとかないですかね^^
私も、余部鉄橋が新しくなってからは、ネットでしか見た事がありません。
食堂車って今はもう時代にそぐわないのかな?
昔の特急って全車指定席で席を長時間は慣れていても、自分の席をキープできているし、今では、自由席になると、誰かに座られたりしてしまうと言う時代。食事時間には、長蛇の列が出来たりして、特急なのに、立って並んでいなければ食堂車で食事ができないと言う時もあるし、そう言うこともあって、今は、昔のような旅って無理なのかもしれませんね。
懐かしいですね、ここの登場する『やくも』は後のまつかぜ3号ですね。『あげい』という駅も今はもうないのかもしれないですね、倉吉になったんでしょうね。
メッセージありがとうございます。
そうなんです。「あげい」は、「倉吉」と言う駅になっています。
「やくも」は、「まつかぜ3号」で走っているのですね。
私も、長い間山陰方面には行ってないので、状況がもう全然分かりません。
久しぶりに行ってみたいなって思っているのですが、なかなか足が進みません。
やはり、魅力ある列車が走っていないせいなのでしょうか。
でも、本当は、今現在は今現在として撮影しておくと、後に貴重になるのですがね。
1984年1月22日 冬の山陰路を走っていた特急列車の映像ですね、キハ82系・181系特急形気動車を使用した、「まつかぜ」・「はまかぜ」・「あさしお」が続々登場した映像ですね、上手に撮影されておりますよ、気に入りました、国鉄時代の鉄道ファンさん、お見事です。
メッセージありがとうございます。
この当時は、もうキハ82は、まつかぜの1往復だけになってしまい、ほとんどがキハ181系になっていました。
でも、いつも思うのですが、なぜか、大阪から博多まで行く、長距離特急が古い82でそれ以外の大阪・京都から鳥取、米子までの列車が新しい181系を使っていたのでしょうね。不思議と言えば不思議ですね。
特急列車が貴重だったころは、国鉄の特急列車の車掌の制服も白のスーツで、何か
違った感じがしました。
なぜ、こんなコメントをしたのかといえば、昨日、私用で東武の浅草駅に行ったのですが、
特急スペーシアの(12時30分発)の車掌の制服が白いスーツだったからです。
今では急行がはまなすだけとなり、JR各社の優等列車は特急のみであり、JR東日本では確か、専用の制服ではないと思います。
昔は昔で、よかったなあ~とこの動画で感じます。
メッセージありがとうございます。
そか!そう言えば特急ひだの車掌も白っぽい制服でしたね。
列車ばかり写してないでたまには車掌も撮影する必要があったのですね。
服装にも昔と今ってあると言う事ですね。
ちなみに北斗星やカシオペアは、いくらなんでも違うでしょうね。
国鉄時代の鉄道ファン
車掌やホームの放送も「特別急行」、そう、庶民には急行が当たり前の時代で、読んで字のごとく、
特急列車は「特別な急行」だったのかもしれませんね。
(自分は両親が山梨出身なので、甲府まで行く際は、距離が短いため、ほとんどが新宿発着の115系の
普通列車で、165系の急行に乗れるだけでうれしく、あずさの183系は乗った記憶はなかったです。
ちなみにこの当時の日中の新宿発着の普通列車には東京方に郵便車が連結されていた記憶が鮮明に残っています。)
小生は関東在住の今年42歳の生まれてからの鉄っちゃんです。
今は高速道路が充実し、JRもバスとの価格競争で回数券の充実などで、高速バスにプラスアルファーな価格で特急列車に
乗れるようになっていますね。(新宿~甲府間が自由席であれば、あずさクーポンで2500円くらいかな?高速バスは2000円、かいじ限定なら、さらに安いですからね。)
tsuka5116 さん メッセージありがとうございます。
そうそう、昔は特急が特別な急行だったのですね。
私の時代も、特急が少なく急行がいっぱい走っていた時代でした。
昔は、急行と普通は、車両は向かい合わせのクロスシーとで直角の椅子。
だけど、急行は停車駅が少ないというだけだったので、急行だったのかも知れませんね。
そして、特別急行は、窓が開かない 冷暖房付き 転換クロスシートで進行方向に全員座れる。急行よりも停車駅が少ないなどなど、特別と言うにふさわしいサービスでした。
でも、今は、通勤電車にもクーラーが付いて、下手したら窓もあかない。この辺は、特別急行のサービスに近づいてきていて、これらのサービスが、特別ではなく当たり前のサービスになってしまった今日、さらに、昔 急行ですら通過していた駅にも停車する特急。
これって特急と言えるのでしょうか?
余談ですが、昔は特別急行のさらに上があったのですよ。
スーパー特別急行・・・・・超特急です。
東海道新幹線開業当時、こだまは、特急 ひかりが超特急だったのです。
国鉄時代の鉄道ファン
東海道新幹線開業当時にJR化後、ブーム?となったスーパー〇〇の起源があったのですね(笑)
何かの本で読みましたが、特急に乗車の際に、空調が故障していた場合は、払い戻しの対象になるとのことで、
これも、特別なサービスだったということなんでしょうね。(下手をすれば、急行型の153系のグリーン車ですら、冷房が
なかったと思いますから。)
小生の心の中では、超速達運用が本当の特急列車と思っています。(はくたか2号に乗った時は嬉しかったです。しかし、福井~大阪移動の時にサンダーバードに乗った際は、敦賀までの停車駅の多さに少しショックでした。時刻表で例えば、大阪、新大阪、京都、福井、金沢、高岡、富山にしか止まらないサンダーバードを見ると、感動します。中央本線では新宿、八王子、甲府、茅野、上諏訪、松本のスーパーあずさですかね。)
ちなみに小生の地元の東武鉄道ではごくまれに、スペーシア(100系)やりょうもう(200系)が車両運用の都合で、代走が
あるようで(100系は350系、200系は1800系での代走)この時には特急券が払い戻しされるようです。
まあ、東武(本線系統)は特急料金が3パターン(スペーシア、りょうもう、きりふり(しもつけ))とあり、10年近く前まで、私鉄で唯一、特急料金と急行料金があったので仕方がないと思いますが。
長々、すいません。
tsuka5116 さん メッセージありがとうございます。
言われる通り、超速達運用が本来の特急・・・・・ですから、いっぱい停車する特急なんてどうなのかな?って思います。
昔、旧型客車の急行越前、475系の急行立山、くずりゅう、兼六、キハ25・58系の大社が通過していた駅に、少ない本数ですが停車する特急があります。
その反面、サンダーバードで止まらないやつがあるのです。
ヨンダーバードって言うのですが・・・・・・(止まるヨンダーバードの方が多い)
大阪 新大阪 京都 福井 金沢 高岡 富山 サンダーバード7号11号です。
東武鉄道は、あまり良く分かりませんが、インターネットで画像検索すると、座席が少し違うくらいで、そんなに払い戻しするほどでもないと思うのですが。
でも、その方が、安く移動できて良い人もいるかも知れませんね。
昭和45年の時刻表、貴重な物をありがとうございます。万博輸送が落ち着いた頃ですね。銀嶺とつくのはスキー臨ですね。列車番号が博多まつかぜでも1000番代ですね。気動車特急はまだ山陽特急の方が一桁の時代だったと思います。かもめ、なは・日向、白鳥もあった頃ですね。この頃は急行列車の増結はキハ55系もあったりしました。博多まつかぜが80系で残っていたのは、181系が初期故障が多くて、名古屋や尾久で手を焼いていた名残りだと思います。又、キハ181にはトイレ設備が無かったのでそれも考えられます。関門トンネル通るので冷却問題も考えられました。なにせ国鉄時代でしたので色々とあった様です。やくもは山陽新幹線岡山開業で伯備線のL特急にシフトしています。大阪しなのは381系に変わっても暫くは181系が残りました。キハ80系は181系に比べて車両の作りも良かった様に思います。初期のグリーン車はヘッドレストが動きました。これはかもめのグリーン車で動かした事があります。キハ80系は国鉄技師の星晃先生の手がけた名車でしたから博多まつかぜが最後迄残ったのは嬉しい限りでした。いつも長くなってしまい申し訳ありません。貴重な映像をありがとうございます。
メッセージありがとうございます。
そか、万博輸送が落ち着いた頃なのですね。
博多行のまつかぜが、キハ181系が使われなかったのは、こんな理由が挙げられるのですね。
なんか、良く聞く話ですが、
「蒸し風呂特急しなの」
って長野の人たちがあだ名をつけたようで、特急しなのは、よく発電用エンジンが止まったそうです。安曇野に友達がいた時、その友だちの家に遊びに行って帰り特急しなのに乗って帰る時にその友だちにこう言われました。
「昔は特急しなのは蒸し風呂特急しなのって言われてクーラーが良く止まったけど、今は電車になってよかったね」
ってね。
でも、私の乗った381系大阪行しなのは、野洲を通過したころに室内灯が消えて蒸し風呂特急になりました。30分ほど最寄りの駅に停車して、復旧し発車したのですが、笑ってしまいました。
キハ82は、その前のキハ81が、「はつかり・がっかり・事故ばっかり」って言われるくらい初期故障が多かったようで、そのリベンジを言う事で作られたキハ82だから、それなりに北海道から鹿児島まで活躍する名車となったのかもしれませんね。
そうそう、余談ですが、特急つばさのキハ181系に乗ったときも板谷峠で蒸し風呂特急になりました。そして、新庄を発車した後、上野行きの特急つばさが、四ツ小屋で脱線しました。
でも、脱線は線路が悪かったようですね。
でも、末期はそんなに故障って聞かなくなりましたね。
長くなtって申し訳ありません。
どの時刻表だったか浜村を通過する夜行普通列車があったみたいですよ
夜行普通列車も大阪発と京都発の2本立てであったみたいですよ
メッセージありがとうございます
そうなんですか?
私は、もっぱら京都発の夜行列車しか乗ったことが無いのです。
今も山陰本線は特急が少し多いですがよく思えば昔から急行などが多く、そのなごりなのかなと思います
メッセージありがとうございます
なるほど。普通列車はもうあまり利用する人はいないのかな?高校生とか、クルマに乗れない人くらいで、ほとんどクルマでの移動になってしまっているのでは?
こんにちは。
私は1971年生まれなので、この時の時刻表は知らないのですが、当時は『まつかぜ』も『やくも』も「全席指定」だったのですね。『特別急行』の風格というのでしょうか。今の特急とは違う、やはり"特別な"急行だったのですね。
この時刻表を動画から拝見させていただいていて、極めて初歩的な疑問で申し訳ないのですが・・・
「さんべ2号」や「ちどり2号」の下に『◎(の真ん中に点)』のような記号がありますよね?
また、急行列車を見ていると『☓』の形に似てるというのでしょうか、グリーン指定席とは違う・・・これらの記号のこと、またお時間のある時にで構いませんので、教えていただければお願いいたします。
私も子どもの頃、時刻表はほんと、見ていて飽きないほどずっと見ていた愛読書だったのですが、私が見ていた時刻表ではもう、例えば寝台車では「☆」「☆☆」「☆☆☆」の記号表記になっていたものだったので。
しかし、時刻表というものはいつの時代のものも本当に面白いものですね。
『はまかぜ』が登場するのは1972年の3月からですし、『やくも』が『まつかぜ』の補完をし、新大阪から福知山線経由で山陰本線を突っ走っていたのですものね。
jxfds369 さん メッセージありがとうございます。
1970年12月の時刻表なんですが、私の持っている一番古い時刻表なんです。
まあ、この当時は、中学2年で、この頃から、時刻表を見るようになったようですね。
それで、花びらみたいなXのマークですが、時刻表には
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閑散期の平日は指定料金が100円になる列車。
(閑散期の平日とは1月10日→3月20日・5月10日→7月20日・9月1日→12月20日の休日と休日の前日を除いた日)
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と記載されています。
また、◎に・がある列車は、
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年間指定料金が100円になる列車
-----------------------------------------------------------------------------------
と記載されています。
いや~でも、この時刻表のほんの一部を見ただけで、こんなに質問が出るなんて、さすがですね。
私なんか、全然気にしていませんでした。
昔は特急と言えば、全車指定が当たり前だったようです。
それが、1日に1往復しか走って無かったりして、特急に乗ると言う事は、本当にすごい事だったのです。
一般庶民は急行、仕事で移動する人は特急ってな時代だったのかもね。
国鉄時代の鉄道ファン さんありがとうございました。とても参考になりました。私が子どもの頃見ていた時刻表では、うしろのほうの「きっぷ」のページで、それぞれ煩忙期、通常期、閑散期で指定料金だったでしょうか、特急料金だったかが変わることが書かれてたように記憶していますが、その頃の時刻表では、ひとつひとつの急行列車にそういう風に記されていたのですね。いわゆる今でいうところの「A特急料金」「B特急料金」みたいなものの、急行版みたいなものでしょうか。(時刻表が)下ること、例えば、私たちの頃は、寝台列車で記されていたあの時刻表のマークも、寝台急行では白黒が反転した物でしたが、私が70年代の時刻表の記号がわからなかったように、寝台急行がなくなった現在、それらもまたわからなくなる世代が出てきたりするのでしょうね。寝台特急のあの時刻表のマークも時間の問題なのでしょうか・・・。それを思うと、なんだか、寂しく感じますね。話が逸れて失礼をいたしました。
jxfds369 さん メッセージありがとうございます。
時刻表には、すごく詳しいですね。
JRになってからは、JRの時刻表とJTBの時刻表が出てきたのですが、特急の記載方法がそれぞれ違うのです。
JRの時刻表は、特急は赤で2色で表示し、JTBは、特急の時刻の横に太線が引かれるようになったのです。
私は、列車ばかりを追いかけていますが、列車の変化に伴って、時刻表もその時代時代で変化していっているのですね。
それと、昔の時刻表は、値段も安かった(笑)のと同時にもっと薄かったですね。列車本数が少なかったと言ってしまえばそれまでなんですが、記載方法にも、違いがあったかも知れません。
すいません、北陸北越→北陸本線です(笑)そういえば、北越は新幹線開業でなくなっちゃうんでしょうかね・・?
メッセージありがとうございます。
聞いた話なんですが、「北越」も廃止になるって聞きました。
ちなみに、今日の未明にW7系の2編成目の陸送が終わりました。
私は、仕事だったので、4日めの10号車から12号車の3輌しか撮影出来ませんでした。でも、平日の真夜中の1時から3時の時間に、女性も、男性も子ども連れで良く、見に来ますね。私は、次の日、お休みだったから行けたのですが・・・・
山陰路は岡山発になった「やくも」がまず181系化して、その次が多分「はまかぜ」で、次に「あさしお」かな。多分篠山口~福知山間より綾部~園部間の方が山深いと考えたのだろうと思います。
メッセージありがとうございます
なるほどね、初めの頃は、西の方に181系が走っていた時代、あさしおは、80系でしたからね。
でも、どういうわけか、長距離のまつかぜだけが、80系で走っていた。
181系も食堂車があったのに。
キハ181懐かしいですね。
メッセージありがとうございます。
そうですね、当時はキハ80系が少なくなってきて、キハ181系ばかりだったのに、今はもう懐かしい時代なんですね。
時の流れは速いものです。
キハ181系が無くなって寂しいですよね。(´;ω;`)
今のキハ189系はなんだかなぁと
メッセージありがとうございます
まあ、国鉄時代に作られた車両は、どこかこだわりと言うか、国鉄仕様って言う決まりがあって、その枠にはまった設計をしていたようにも思います。
私鉄になって、そういう枠がなくなり、自由な発想での設計になり、これがいまいちいただけないって言うところがあるのではないでしょうか?
つまり、特急のマーク(くちばしのようなもの)ヘッドマークなど、こういうものもなくても良いと言うのが、国鉄時代とは違った枠にとらわれないスタイルになり、
昔からの国鉄の特急車両を見ている人からは、いまいち って思うのかもしれません。
ディーゼル特急のプラレール欲しいです。
キハ181なら売っているとおもいますよ。
ディーぜル特急のプラレールが欲しいです。
キハ181は、売っていないかな?
時刻表の列車、名列車ばかりですね。
京都発下関行きの列車のダイヤは、初めて見ました。
今や偉大なるローカル線といわれていますが、昔はそんなことなかったんですね。
メッセージありがとうございます。
私も、1970年の時刻表なんて、じっくりと山陰本線を見た事はなかったのですが、たまたま家に有ったので見てみると、こんな感じでした。
偉大なるローカル線って言われているのですか?
でも、まだ特急もいっぱ走っているし、まだまだ行けそうですよ。
来年、北陸新幹線が開業して、北陸本線が、第3セクターになったら、山陰方面の撮影に、行ってみたいですね。